天平の昔、観音さまの一大霊場である大和の国 長谷寺の観音像と同じ霊木より鎌倉の長谷寺の観音ともう一体の観音さまを、長谷寺の近く長楽寺に安置するために稽文という仏師が一刀三礼にて彫刻しておりました。ところが完成を間近に稽文は中風の病にかかり、やむなく未完成のまま長楽寺にその観音像を祀ります。
その頃、時を同じくして地蔵菩薩の化身といわれる道智上人により但馬の国に霊湯が湧出し、その効験あらたかさを聞いて、稽文は湯治のために当地を訪れます。温泉の効験により稽文の病はたちまちに治り、奈良の都に帰る前に近辺のあちらこちらを見て回ると、今の城崎温泉駅の少し上流の下谷浦というところに観音像が流れつくのを見つけ村人の助けを借りて救い上げてみると、不思議なことに自身が彫刻し長楽寺に安置したはずの十一面観音像でした。(以来この下谷浦を観音浦と名付ける)
未完のままの観音像を祀った長楽寺の近隣では疫病が流行し、この観音さまのせいではと疑い、村人が川に観音像を流しました。下流のところどころに観音像を救い上げてお祀りするが、その度ごとに病や祟りがおこり再び川に流されて、ついには摂津の国 難波の津より海に投じられて、波を漂い流れてこの地まで流れ着いたのでした。
稽文仏師はこの不思議を道智上人にお伝えし、草堂を建立して観音像を安置して道智上人に託し、奈良へ戻りました。その後、観音のお告げあって道智上人は今の温泉寺の場所に伽藍を建立し、観音像をお祀りしたのが温泉寺のはじまりです。
この温泉湧出の不思議と効験あらたかなることと、観音像の不思議の話が天聴にまで届き、天平10年(738)聖武天皇より末代山 温泉寺の勅号を賜り、爾来温泉寺は城崎温泉守護の寺となり、十一面観音さまは温泉寺の本尊であると同時に城崎温泉守護の観音さまとして広く知られ信仰を集める観音さまです。
道智上人像
尚、この観音像は2メートルを超える大きな観音さまですが、大和、鎌倉の長谷寺の観音さまを含む三体のうちでは最も小柄なお姿であり、巨木の最も先の部分より造られた観音像であります。よってこの観音により守られるこの地を城崎(きのさき=木の先)と呼ぶ地名の謂れにもなったと伝えられる霊験あらたかな仏さまであります。
歴史学者 磯田道史先生は、週間文春の取材で城崎温泉にお越しになった際、十一面観音の由来が記された、『但州城崎温泉寺観音並湯之縁起』を読まれてドラマチックな観音様に絶賛でした。
…疫病神のような観音様は奈良で川に捨てられ、津々浦々に流れ着いては災いをもたらす。その度に捨てられ、拾われ、崇り、また捨てられ、を繰り返す。そしてこの城崎の地で、なんと、生みの親の仏師と再会する。仏師は観音様の祟りで病になったが温泉のおかげで丁度、完治したところ。自分が彫った観音様が漂着したのを見つけ、涙ながらに抱き上げ、庵に祀った。祟り観音が、流浪の歳月を経て、ついに当地の守り仏になった。いい話だなぁ。造られた瞬間から神々しい仏像より、こういう苦労人の観音様のほうがぼくは好きですね。それにしても面白い。
(週間文春11/3号より)
温泉寺の中興、清禅法印が造営した本堂は五間四面、南北朝時代を代表する建築です。和様・唐様・天竺様の三様式が絶妙に融和した折衷様式の入母屋造り。厨子の左右に安置される四天王像は県指定重要文化財です。
大師山の山頂に建つ奥の院・大師堂は、現在では数少ない土間のお堂です。近年、よくない縁を断じ去り、願いを叶え、的に当たればご利益が増すとされる「かわらけ投げ」が奥の院再建にあわせて復活しました。大師堂にお参りし、願いを込めてからお投げください。
後西天皇の皇女・宝鏡寺宮理豊内親王の御筆による「末代山」の額、持送りの篭彫り彫刻など見どころの多い、但馬地方有数の山門です。再三造立され、現在の門は明和年間(1764~)の再建。
山門に安置される仁王像は運慶・湛慶作といわれています。仁王像は古来、身体の不調に効験あらたかとの信仰を集める仏でもあります。
城崎温泉を守護くださるお薬師さまに相応しく、彫刻等で見事に飾られた総欅造りのお堂です。文化年間(1804~)に再建。日光・月光の両脇士、十二神将等も内陣に安置されています。
薬師堂の境内には飲用の温泉が湧く湯飲場があります。適応症は慢性消化器病と慢性便秘。このほか、城崎温泉駅前と一の湯前にもあります。
基礎・塔身・笠・相輪を完備した珍しい遺物で、塔身には金剛界四仏の種字が刻まれ月輪でかこまれています。
明和4年(1767)の再建。内部須弥壇には平安時代の秀作、金剛界大日如来をお祀りしています。
本堂の解体修理に伴い、寺所蔵の仏像・仏画・古文書等を展示するために旧城崎町が建設。平成3年には、町内で発掘調査された埋蔵文化財の遺物も追加されました。